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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲

2001年東宝作品 監督:原恵一 主演:矢島晶子(野原しんのすけ)

翌年公開された「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦」で文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を受賞、原恵一監督はクレヨンしんちゃんシリーズから離れることとなった。


「オトナ帝国の逆襲」と併せ、大人も楽しめるアニメーションづくりに成功した、と思われたが、一方で大人しか楽しめないアニメという受け取られ方をしたのか?いずれにせよ原監督がこのシリーズから離れたことには多くのファンが少なからずショックを受けたものだ。


「殺しの烙印」の公開後、鈴木清順監督が日活をクビになったことを思い出すファンも多いかもしれない。日活の役員から「わけの分からない映画」のレッテルを貼られクビにされたのだ。今日見れば「殺しの烙印」は間違いなく名作であるというのに。


その解雇がもたらした影響は明白だ。鈴木監督の首によって日活はニューアクション路線が尻すぼみになったといえよう。また、ツゴイネルワイゼンの製作までの約15年間、鈴木監督がメガホンを取らなかった代償は日本映画全体が払ってしまった、とも言える。


原監督のクレヨンしんちゃんシリーズ離脱も、遠い先の或る時代に同じように語られるような気がしてならない。


「オトナ帝国の逆襲」は今日、もう一つ違う視点で語らねばならない。大人帝国は高度経済成長あるいは工業化社会を指す。バブル崩壊も、リストラも、賃下げも、年功序列の崩壊も、或いはIT長者の登場も無い。平和で誰もが平等に幸せを分かち合える日々だ。


自由競争による弱肉強食、弱者淘汰といった殺伐とした現代から見ればユートピアのような世界である。多分、今より貧しかった筈だが、昨日より今日、今日より明日の方がより良くなる、と誰もが信じていた。


そんな世界に移り住みたいと願うのは、父ひろしを始めとする映画の中の大人たちだけではない。


しかし映画の最後でひろし達大人は、しんちゃんによって現実の世界に引き戻される。賢いしんちゃんは、その世界に居た方が大人たちは幸せなのだということを理解している。それでもしんちゃんは、彼らを現実に引き戻す。自分の行為の残酷さに涙を流しながら。


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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲のことが読めるblog


ピョンスケさんの徒然blog
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懐かしい臭いを求めて・・・
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映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲

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【2005/05/31 22:06】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4) |

★野良猫ロック ワイルド・ジャンボ

1970年日活作品 監督:藤田敏八 主演:梶 芽衣子、藤 竜也、地井武男、氾文雀、和田アキ子


女番長シリーズのうち藤田敏八が監督した作品。同シリーズ定番の”ズベ公”を中心とした青春無軌道暴走ストーリーではない。


社会に反発する若者達が正教学会という新興宗教団体が信者から集めた金を横取りしようと計画を立て、結局は警察に追い詰められ死んでしまう。つまり目標(新興宗教の金を横取りする)も、思想(社会に敵意を持っている)も持った若者達の青春と死を描いた作品だ。


地井武男が今では想像できないほど格好いい。


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野良猫ロック ワイルド・ジャンボのことが読めるblog
Super Fancy
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Blog of www.matsunami.com > AboutMovie >
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野良猫ロック ワイルドジャンボ(昭和45年製作)
藤田敏八 永原秀一 地井武男 梶芽衣子
B00005FCB3

【2005/05/27 15:43】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

グレイストーク ターザンの伝説

1983年英国映画 監督:ヒュー・ハドソン 主演:クリストファー・ランバート


エドガー・ライス・バローズの「類人猿ターザン」(1912年)を最も忠実に映画化したターザン映画と言われる。ヒーローというより一人の人間としての苦悩を描いた作品。


ターザン映画というとジョニー・ワイズミューラーのような健康優良児をイメージする。ワイズミューラーはオリンピックのパリ大会、アムステルダム大会の水泳で活躍、金メダルを五個も取った選手。野性的な肉体美でターザンのイメージを作り上げた俳優だ。


しかし、「グレイストーク ターザンの伝説」のターザン、クリストファー・ランバートはどう見ても健康優良児には見えない。この映画のために筋肉トレを行ったらしく、ボディビルダー並みの肉体ではあったが、肉体美とは言いがたい。むしろその筋肉の凹凸は、貴族の赤子が苦闘の末にジャングルで生き抜いてきた歴史を刻むかのようだ。


またこのターザンは「あ~ああ~」とは言わない。寡黙で、人間としての自分と野生の一部である自分の狭間で苦悩する。


殊に、スコットランドに渡ってから訪れた、幸福の日々と愛するものを失った悲しみの落差に苦悶する彼は哲学的ですらある。精神的は間違いなく鬱状態で、健康優良児などとは対極の位置に居る。


ラストシーンで恋人とおじさん(?)が見守る中、ジャングルの中へターザンが消えていく美しい映像はヒュー・ハドソン監督の代表作「炎のランナー」を上回るほど。


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グレイストーク ターザンの伝説のことが読めるblog
まじぞうの閑雅なる日々
http://blog.kansai.com/majizou/94

手当たり次第の本棚
http://kotora.ameblo.jp/entry-892652f5ef6e8dfe280c5245d25e6874.html



グレイストーク -類人猿の王者- ターザンの伝説
グレイストーク -類人猿の王者- ターザンの伝説

ターザン
ターザン

【2005/05/23 12:22】 未分類 | トラックバック(2) | コメント(4) |

野獣死すべし

1980年角川作品 監督:村川透 主演:松田優作


綺麗好きな優等生が、実は非常に怖い、というイメージの形成に役立った(?)映画といえる。


大手通信社にカメラマンとして勤務していた主人公。アンゴラ、レバノン、ウガンダなどの凄惨な戦場を渡り歩いた後、突然、退社する。


冒頭、一流大(恐らくはT大)卒の彼が大学の同窓会に出席するシーンが出てくる。同級生はいずれも鼻持ちなら無いほど育ちが良さそうで、高そうな服を着ている。その上、話といえば自慢話だ。会話の中から主人公が勉学については最も優秀であったことが窺(うかが)い知れる。


主人公の住むマンションの部屋は、見るからに当時としては高級マンション、調度類や家具類も地味だが品の良い雰囲気のものだ。そして何より目を惹(ひ)くのは、良く片付いている、ということだ。

一流大出で、趣味が良く、キチンとした性格=最高の人物ではないか。


しかし、彼は狂ってる。映画はまるで狂ってるから一流大出で、趣味が良く、キチンとした性格なのだ、と言わんばかりだ。


せっかく真面目に勉強したり、生活してるのにね。真面目にやり過ぎると、こんな風に狂っちゃうんだよ。


過ぎたるは及ばざるが如し。普通に生きることは難しい。


■西沢千晶のシネマ日記
http://blog.livedoor.jp/chiakix/archives/349333.html

■JOY
http://blogs.yahoo.co.jp/oniku_500g/2749440.html

■ほぼ日本映画専門サイト『キネマの星座』~血煙映画街道~
http://diarynote.jp/d/28556/_0_330.html

■MCR THEATRE on the WEB!!!
http://www.mc-r.com/blog/archives/2004/0715072259.php

■Modern Syntax
http://www.aivy.co.jp/BLOG_TEST/nagasawa/a/archives/2005/05/516.html



野獣死すべし
野獣死すべし

野獣死すべし
大薮 春彦
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【2005/05/22 11:05】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

灰とダイヤモンド

1958年ポーランド作品 監督:アンジェイ・ワイダ 主演:ズビグニエフ・チブルスキー


主人公・マチェック。いるんだよね、こういう人。それも優秀、特に能力が高い、という意味で優秀な人に多い。


子供の頃から何でも出来て、いつもテストは100点、サッカー大会ではいつもエースFW、人柄も良くて、格好も良い、女子生徒の憧れなんだけど人格も高いからお高く止まるなんてことはない。いつも控えめで、余計なことは言わない。質素で決して目立とうなんてしない。見栄を張るとか、自分を虚飾するなんて考えも及ばない。そしていつもみんなに優しくい。


多分、マチェックはそんな子供に生まれついたに違いない。


しかし、そんな個人なんて社会の大波には簡単に飲まれてしまう。マチェックは多分、みんなのために反ナチスレジスタンス運動に身を投じ、殺し屋になったに違いない。そうして優秀なマチェックは、殺し屋としてエース級の働きをしただろう。


しかしマチェックは控えめだ。何故なら人格が高いから。自ら地位を要求するなんて下衆なことはしない。それどころか地位なんてどうでもいい。その結果、ナチスが倒れてもマチェックは殺し屋のままだ。


何故?って。ナチスが倒れても、次に誰が政権を獲るかっていう争いが残されてるから。権力者がマチェックのような優秀な殺し屋を手放す筈は無い。


第二次大戦が終わったと思ったら、今度は反共産党地下運動に入れられる。そしてソ連系共産党地区委員長(労働者党書記)シチュカ暗殺を命じられる。


時代が悪かった。世界中、狂った指導者ばかり。狂ってたのはヒトラーだけじゃなかった。その中で、マチェックはぼろ雑巾のように使い捨てられてしまった。


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灰とダイヤモンド のことが読めるblog


銀幕に潜む悪魔たち~ワルシャワの光と闇
http://blog.goo.ne.jp/ck1956/d/20050524

バイオと逮夜問答
http://ashes.way-nifty.com/fbio/2004/09/post.html

本日の曲 GLAY「灰とダイヤモンド」
http://rio.no-blog.jp/kokoiru/2005/01/glay.html



灰とダイヤモンド
アンジェイ・ワイダ イエジー・アンジュイコフスキー イエジー・ウォイチェック ズビグニエフ・チブルスキー
B00005FW0J

灰とダイヤモンド〈下〉
灰とダイヤモンド〈下〉

「灰とダイヤモンド」の国ポーランド
「灰とダイヤモンド」の国ポーランド
【2005/05/20 18:51】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2) |

殺しの烙印

1967年日活作品 監督:鈴木清順 主演:宍戸錠
この映画により鈴木清順監督は日活を解雇された。当時の日活社長が「わけの分からない映画」と激怒した、というのは有名な話だ。
主人公花田は組織No.3の殺し屋だ。女より飯の炊ける匂いが好き、という嗜好の持ち主で、当時はNo.1フェロモン女優の地位を確立していた真里アンヌの匂いより飯の臭いに恍惚とする。
ストーリーは組織から請け負った仕事に失敗した花田が組織No.1の殺し屋と対決する。花田はNo.1は執拗に付きまとわれる。今日的に言うとストーカー行為を繰り返されたような感じ。それがために恐怖のどん底に陥れられる花田。命を掛けた駆け引きの末、なぜか二人は手錠で腕と腕を結ばれた共同生活を送る。
天才・鈴木清順が白黒映画の最後の姿を追求した結果なのか?と思うほど陰影のコントラストが強調され、また活劇を祖にした映画の究極の姿がこれなのか?と考えさせられるほど台詞回しがキザ。そして、現実離れしてるほどスタイリッシュ。
組織から請け負った殺しの依頼を追行するシーンで、主人公花田が洗面所の排水口からターゲットを狙撃する有名な場面がある。
ターゲットの中年男が朝、マンション(ホテル?)で歯磨きをしている。何故か地下室へ向かう花田。ターゲットは熱心に歯磨きを続ける。地下室で、天井から降りてきている排水管の継ぎ手をレンチで回す花田。ターゲットはいよいよ歯を磨き終わりそうだ。継ぎ手を外し、排水管を下から覗き上げる花田。ターゲットは歯磨きが終わり口を濯(ゆす)ぎに洗面台に行く。銃を出す花田。排水溝に向かって歯磨きを吐き出すターゲット。その直後、ターゲットは昏倒する。口から撃ち抜かれ死んだのだ。花田は配管から銃を抜き出す。
地下で拳銃から発射された弾が、配管の中を通って(何階だか分からないがかなり上の階の)洗面台の排水口か飛び出てターゲットの口~後頭部を打ち抜いた、ということだ。
配水管のトラップ(排水管の途中をU字に曲げ、水をためておく構造)って悪臭や虫が室内に入るのを防いぐだけじゃないのだ、と思った。
【2005/05/20 12:41】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

祭りの準備

1975年ATG映画 監督:黒木和夫 主演:江藤淳
脚本家中島丈博の自伝的作品と言われる。今は懐かしいATG(アート・シアター・ギルド)の代表作。
昭和30年代、高知県の田舎街、20歳、信用金庫の外勤係の主人公。女狂いの父、自分を溺愛する母、隣の泥棒一家、色情狂の隣家の若妻、発狂した末娘、末娘に子供を産ませる祖父、憧れの女性。日本が高度成長の波に乗り、社会が複雑化した時代、若者は大人たちと、そして自らの欲望に呑み込まれていく。その中で若者が挫折し、旅立つまでを描いている。
憧れの女性、涼子を演じるのはまだ初々しい竹下恵子。清楚で知的な彼女は、理想の社会を求めた政治運動に熱をあげ、主人公の求愛に見向きもしない。しかし、彼女もまた大人たちの欲望に呑み込まれていたのだ。彼女は、傾注した政治運動の指導者、オルグの男にカラダまで捧げたが、しかし男は知らぬ間に去って行ってしまう。その現実と理想と欲望の狭間に動転する彼女は、主人公をセックスに誘う。
憧れの女性に思いを遂げられた主人公だが、こころは傷ついた。彼女もまた自分を、欲望の餌食にしただけなのだ。主人公は全てを捨て東京に出る決心をする。
という物語。江藤潤、竹下景子という新鮮なコンビに馬渕晴子、ハナ肇、浜村純、原田芳雄、杉本美樹らの個性的な演技が感動的だ。日本の青春ドラマのターニングポイントとなったと言っても良いほどの作品。
田舎街の平凡な家々。その中に高度成長の波が都会から押し寄せる。住まう人々は翻弄され、狂い、挫折する。大人達は全てを感受し、また何事も無かったように現実の今を生きていく。隣家同士が覗き合える家々は、恥も外聞も全て味噌糞一緒なのだ。しかし若者は家を捨てる。右肩上がりの社会のほろ苦いが感動的なお話。
【2005/05/19 12:23】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

東シナ海

1968年今村プロ作品 監督:磯見忠彦 主演:田村正和
ナイスミドルの象徴のような田村正和が若き日に主演した青春映画。内容はどたばただが、製作者達の映画に対する情熱が迸(ほとばし)る熱い作品である。
育ちのいい大学生・六郎は、大学の卒業旅行の代わりにとマグロ漁船に乗り込んだ。学歴とか家柄とか、そうしたブランドを全て取り外して一人の人間としてどれだけ出来るかを試してみたい、という高い志からだ。ところが世の中、そんな高い志を持つ者など今も昔も稀である。同乗した乗組員はテキヤの片山、頭の弱いヤスオ、エロ写真売りの泡石、それに少年院出の混血児ジャッキー。いずれも社会をドロップアウトした者ばかり。志って何?という連中ばかりだ。
マグロ船は太平洋の真中でエンジンに故障を起こし、沖縄の那覇港に着く。ここから土地のやくざ我那覇組と大乱闘、船内に見知らぬ男の死体を発見、死体を無人島へ捨てに行き米軍のジェット機の猛爆にさらされるなど、どたばたが続く。
そんな社会の最下層の者達と行動をともにする中で六郎はバーのホステス加奈に恋をする。更に、死体は加奈の従兄で婚約者でもある祖国復帰運動をしていた男だったという、美談も加わる。
どたばたが一段落したところで、六郎は加奈に求婚する。しかし、加奈はジャッキーを好きになっていた。六郎とは生きる世界が違うことを加奈は知っていた。ジャッキーを残して、名残り惜し気に沖縄を去っる船に六郎はいた。そこにいる六郎の顔は大人の仲間入りを始めていた。
泣いて笑って義理人情という内容だが、すれっからしの現代映画、あるいはテレビも含めて、もう二度とこんな爽やかで熱いドラマは見られないだろう。馬鹿で役無しで、人格も低い社会の最下層の人々にエリート六郎が揉まれ胸を打たれ、成長していく。しかし踏み台などとは訳が違う。一生の仲間なのだ。六郎はそれだけの純粋さを持ち合わせた若者だ。
しばらく前に、韓流ブームと言われ感動的な韓国ドラマがヒットした。しかし日本の社会が伸び盛りの頃、わが国には良くも悪くもこんな映画があったことを知って欲しい。
那覇で彼らが根城にする壊れたマグロ漁船。死体が投げ込まれたり色々あるが、その薄暗い船内には高度成長期の明るい青春が溢れている。

【2005/05/19 11:18】 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0) |

グラディエーター

2000年米映画 監督リドリー・スコット 主演ラッセル・クロウ
古代ローマ五賢帝時代の終焉のひとつのエピソードと言える。
哲人皇帝の誉れ高いマルクス・アウレリウスだが、不肖の実子コンモドゥスを後継者にしたことが唯一の汚点のように言われている。この映画のストーリーはそこに起点を置き、アウレリウスが実はアエリウス・マキシマスという高潔にして歴戦の勇者である将軍を後継者に決めていた、というフィクションを作り上げた。
ストーリーは自分の父であるアウレリウスばかりでなく、部下の兵士に民衆、あるいは元老院からまでも愛されるマキシマスに対するコンモドゥスの嫉妬を中心に組み立てられていく。
父アウレリウスを殺害、皇帝の座に就いたコンモドゥスはすぐさまマキシマスの故郷に兵を走らせ、妻と息子を殺害し、家を焼き払う。また、マキシマスを反逆者として追放する。
しかし、愚帝コンモドゥスの思惑に逆らい、コンモドゥスの姉ルシラがマキシマスを救いコンモドゥス体制の崩壊を目論む。ルシラは姉であったがコンモドゥスから近親相姦的な屈折した愛を求められていた。
最終的に、マキシマスはコンモドゥスと刺し違える形で死ぬ。グラディエーターの題名とおり、闘技場で剣闘士として。
ローマ五賢帝時代の最後の皇帝マルクス・アウレリウスはストア派哲学者でもあった。ストア派はストイックの語源になっただけあり、自己を厳しく律するに、自然をありのまま受け容れる忍耐を示している。
高潔にして勇者、禁欲的で犠牲的なヒーロー・マキシマスはマルクス・アウレリウスが著した「自省録」がヒーローとして登場したかのようだ。
『明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ」』(自省録より)
映画の冒頭、そしてマキシマスが運命に翻弄される度、マキシマスの回想シーンが登場する。それは村を隔てる大きな石壁のドアを開け、青々と伸びる麦の波の中を歩くマキシマス。その視線の向こうにはもくもくと、しかし楽しそうに農作業をする妻と息子がいる。父の帰りと平穏な日々の到来を、微塵も疑わないような幸せな笑顔。そしてエンディングシーン、闘技場で生き絶えようとするマキシマスの目に再び妻子の待つ麦畑が蘇る。ふと自分に気付く妻子。笑顔で走り寄る息子。遂に達しえなかった幸福な家に、ようやく辿り着いたのだ。
【2005/05/18 15:12】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

地獄の黙示録

1979年米映画 監督フランシス・フォード・コッポラ 主演マーロン・ブランド、マーチン・シーン
ジョゼフ・コンラッドの名作「闇の奥」の映画化。かのオーソン・ウエルズが映画化を検討したが、断念せざるをえなかったほど難解な作品だ。未開なものに対する文明人の恐怖と、恐怖が生み出す殺戮(さつりく)、殺戮が生み出す恐怖、と人間の奥底に秘める狂気の連鎖が描かれている、などと簡単に説明できる代物ではない。おそらくは我こそが文明人と名乗る白人社会の人間で無ければ本質は到底理解出来ないのではないか、と思われるほどの焦燥感が全編に漂っている。
それは奇才ジョン・ミリアスがアクション作品としての脚本を仕上げたにも係わらず、である。
ベトナム戦争の最中、ベトコンが支配するジャングルの奥地に独自の帝国を築き上げたカーツ大佐。歴戦の勇士であり天才的軍人である彼は、その帝国を根城に虐殺の限りを尽くしているという。彼が軍から離れた理由は何か?その謎の解明と暗殺の使命を帯び、ウイラード大尉はメコン川を登る。
遂に辿り着いた時、ウイラードの前に現れたのは虐殺者とは程遠い哲学者のような面持ちのカーツだった。
夥(おびただ)しい数の髑髏(しゃれこうべ)に囲まれたカーツの住まいは、住まいというより砦(とりで)に近い。未開との戦闘に常に備えたねぐらと言える。
映画とは別に小説も紹介する。
文庫本にして二百ページに満たない短い小説はしかし人間の恐怖と狂気のスパイラルが渦巻いている。未開の恐怖と、文明の狂気が実は表裏一体なのではいか、というのが傍観者としての感想だ。あまりに有名な作品であるから読まれた方も多いと思うのでストーリーは割愛する。ただこの作品から感じるのはアフリカが暗黒大陸と言われた時代から世界は大して変わっていないということだ。現代の、自由と民主主義を旗印にした戦争そして経済のグローバリゼーションは恐怖と狂気の連鎖しか生み出していないかに見えるのだが。映画化にあたってコッポラが付けた「Apocalypse Now」(直訳すると現代の黙示録)という題名は今日にこそ通ずる言葉かもしれない。
【2005/05/18 10:27】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

ブレードランナー

1982年米映画 監督リドリー・スコット 主演ハリソン・フォード
公開当時はB級映画?と勘違いされるほど注目されなかったが、公開後数週間でカルト・ムービーか?と思われるほど熱狂的なファンを生み出した。
原作は有名なフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 。自然の破壊された近未来、住民はペットの飼育が最上の贅沢だった。主人公のデッカードもペットとして羊を飼っているがアンドロイドだ。
題名は、アンドロイドが「せめて電気羊を飼うような生活がしてみたい」と願う=人間になりたい、という意味を込めて付けたと思われるが、しかし映画の中でも原作の中でも、デッカードら人間も実のところ大して変わらない生活をしている。原作で、デッカードは屋上に電気羊を飼っていて、それが大きな満足感となっているのだ。
このSFとしてはありふれたテーマでありながら、狂信的なファンを集め、未だに多くのマニアがいる理由の一つに、リドリー・スコットの描き出した都市空間がある。
不朽の名作である「2001年宇宙の旅」が描いた空間、それは宇宙船の中だったが、その高度な技術の進歩を予見する空間に対し、ブレードランナーのそれは、むしろ人類の科学技術の後退を予見させる。
レプリカント(アンドロイド)が出てくるのだから、高度な技術の進歩はあるのだろうが、デッカードや、狩られるレプリカント達の住まいはみすぼらしい。この世界に庭の存在など想像すら出来ないほどに、窮屈なアパートメントだ。
地下室のように無機質な壁やドア、あるいは通路。全てが灰色で温かみを感じることはない。
そして都市には止むことの無い酸性雨が降り続き、窓から差し込む陽光はいつも夕日のように赤い。
凶悪な姿で登場するレプリカントだが、実は奴隷のようなロボットの生活から、人間のような自由を求めただけ。そんな彼らが辿り着いた先がこの牢獄のような家なのだ。
【2005/05/17 19:12】 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0) |

けんかえれじい

1966年日活作品。鈴木清順監督 高橋英樹主演
無軌道で無気力な60年代の若者映画の中にあって、希有な痛快活劇と言える。
主人公の中学生、南部麒六は通称「喧嘩キロク」として有名な暴れん坊。しかし、キロクにも悩みはあった。下宿先の娘道子が好きなのだ。ケンカに強いが女にゃ弱い。その煩悩をたち切ろうと学校ばかりか配属将校とまで大喧嘩。そのため若松の喜多方中学校に追い出されてしまう。
しかし会津中学でも大暴れ、キロクは停学処分を受けてしまう。
下宿で落ち込むキロクのところへ、はるばる岡山から道子が尋ねて来た。感動して道子をみつめるキロクに道子が思いがけないことを告げる。長崎の修道院に入るというのだ。キロクは絶望のどん底にたたきこまれる。そして、このつらさを忘れるためにも、もっともっと暴れまわらなけりゃならない、と決意するキロクであった。
という非常にはた迷惑な少年の話だが、全編通して明るく健康的。また、このストーリーからは想像出来ないほどの名作に仕上がっている。
これほど自由闊達な少年でありながら、キロクの転機は必ずといって良いほど家の中にある。道子に無理矢理ピアノを教えられる道子の部屋、停学処分を受け落ち込む下宿部屋、そしてそこで道子が修道院行きの決意を告げに来る。整然として質素な若者の部屋が奔放な学生キロクの成長を予告しているかのようだ。
【2005/05/17 16:36】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

反逆のメロディー

1971年の活作品 監督:澤田幸弘 主演:原田芳雄
日活ニューアクションの代表作。
佐藤蛾次郎の「ぶっこわせ、やっつけろ」の遺言がこの映画を象徴している。無軌道な青春、スピード、暴力がテーマだった。
アメリカではニューシネマと呼ばれる「イージーライダー」(69)や「俺たちに明日は無い」(67)といった或る意味、系譜無き映画が作られていた時代。日本でも目標無きエネルギーの暴走が作り上げた映画だろう。
アメリカのニューシネマでも日活ニューアクションでも、無気力・無軌道な若者や、人種差別、ドラッグ、暴力など従来の映画では描かれることの無かった社会の部分に焦点が当てらた。
そして主人公達は体制に敢然と闘いを挑む訳だが、それは正義感によるものなどで無く、むしろ刹那的な情熱に過ぎない。また決まって最後には体制側に押さえ込まれる、抹殺される、個人の無力さを思い知らされる、といった敗北で幕を閉じる。
この映画も同様に既存の体制、ここでは暴力団や警察、それらに刹那的で見方によっては奔放な戦いを挑み、最後は砂利山で警察に取り囲まれ撃ち殺される、というシーンで終わる。
今日の、全て損得で決める、ような社会風潮からすれば、つまり馬鹿の映画だ。しかし一方で社会に認められない彼らのエネルギーは何故か美しくもある。
こうした日活ニューシネマの流れは、今日、青春映画の原点と言われる「八月の濡れた砂」(71)を最後に終わりを告げる。
一言で言うと無法者で無知、無軌道な主人公達、そんな彼らだから当然のことながら家など無視して生きてる。ねぐらはバイクであり、自動車。一所に落ち着く、という概念は無かった時代なんでしょう。

【2005/05/17 15:40】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

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