映画のある家
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ブレードランナー

1982年米映画 監督リドリー・スコット 主演ハリソン・フォード
公開当時はB級映画?と勘違いされるほど注目されなかったが、公開後数週間でカルト・ムービーか?と思われるほど熱狂的なファンを生み出した。
原作は有名なフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 。自然の破壊された近未来、住民はペットの飼育が最上の贅沢だった。主人公のデッカードもペットとして羊を飼っているがアンドロイドだ。
題名は、アンドロイドが「せめて電気羊を飼うような生活がしてみたい」と願う=人間になりたい、という意味を込めて付けたと思われるが、しかし映画の中でも原作の中でも、デッカードら人間も実のところ大して変わらない生活をしている。原作で、デッカードは屋上に電気羊を飼っていて、それが大きな満足感となっているのだ。
このSFとしてはありふれたテーマでありながら、狂信的なファンを集め、未だに多くのマニアがいる理由の一つに、リドリー・スコットの描き出した都市空間がある。
不朽の名作である「2001年宇宙の旅」が描いた空間、それは宇宙船の中だったが、その高度な技術の進歩を予見する空間に対し、ブレードランナーのそれは、むしろ人類の科学技術の後退を予見させる。
レプリカント(アンドロイド)が出てくるのだから、高度な技術の進歩はあるのだろうが、デッカードや、狩られるレプリカント達の住まいはみすぼらしい。この世界に庭の存在など想像すら出来ないほどに、窮屈なアパートメントだ。
地下室のように無機質な壁やドア、あるいは通路。全てが灰色で温かみを感じることはない。
そして都市には止むことの無い酸性雨が降り続き、窓から差し込む陽光はいつも夕日のように赤い。
凶悪な姿で登場するレプリカントだが、実は奴隷のようなロボットの生活から、人間のような自由を求めただけ。そんな彼らが辿り着いた先がこの牢獄のような家なのだ。
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【2005/05/17 19:12】 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0) |

けんかえれじい

1966年日活作品。鈴木清順監督 高橋英樹主演
無軌道で無気力な60年代の若者映画の中にあって、希有な痛快活劇と言える。
主人公の中学生、南部麒六は通称「喧嘩キロク」として有名な暴れん坊。しかし、キロクにも悩みはあった。下宿先の娘道子が好きなのだ。ケンカに強いが女にゃ弱い。その煩悩をたち切ろうと学校ばかりか配属将校とまで大喧嘩。そのため若松の喜多方中学校に追い出されてしまう。
しかし会津中学でも大暴れ、キロクは停学処分を受けてしまう。
下宿で落ち込むキロクのところへ、はるばる岡山から道子が尋ねて来た。感動して道子をみつめるキロクに道子が思いがけないことを告げる。長崎の修道院に入るというのだ。キロクは絶望のどん底にたたきこまれる。そして、このつらさを忘れるためにも、もっともっと暴れまわらなけりゃならない、と決意するキロクであった。
という非常にはた迷惑な少年の話だが、全編通して明るく健康的。また、このストーリーからは想像出来ないほどの名作に仕上がっている。
これほど自由闊達な少年でありながら、キロクの転機は必ずといって良いほど家の中にある。道子に無理矢理ピアノを教えられる道子の部屋、停学処分を受け落ち込む下宿部屋、そしてそこで道子が修道院行きの決意を告げに来る。整然として質素な若者の部屋が奔放な学生キロクの成長を予告しているかのようだ。
【2005/05/17 16:36】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

反逆のメロディー

1971年の活作品 監督:澤田幸弘 主演:原田芳雄
日活ニューアクションの代表作。
佐藤蛾次郎の「ぶっこわせ、やっつけろ」の遺言がこの映画を象徴している。無軌道な青春、スピード、暴力がテーマだった。
アメリカではニューシネマと呼ばれる「イージーライダー」(69)や「俺たちに明日は無い」(67)といった或る意味、系譜無き映画が作られていた時代。日本でも目標無きエネルギーの暴走が作り上げた映画だろう。
アメリカのニューシネマでも日活ニューアクションでも、無気力・無軌道な若者や、人種差別、ドラッグ、暴力など従来の映画では描かれることの無かった社会の部分に焦点が当てらた。
そして主人公達は体制に敢然と闘いを挑む訳だが、それは正義感によるものなどで無く、むしろ刹那的な情熱に過ぎない。また決まって最後には体制側に押さえ込まれる、抹殺される、個人の無力さを思い知らされる、といった敗北で幕を閉じる。
この映画も同様に既存の体制、ここでは暴力団や警察、それらに刹那的で見方によっては奔放な戦いを挑み、最後は砂利山で警察に取り囲まれ撃ち殺される、というシーンで終わる。
今日の、全て損得で決める、ような社会風潮からすれば、つまり馬鹿の映画だ。しかし一方で社会に認められない彼らのエネルギーは何故か美しくもある。
こうした日活ニューシネマの流れは、今日、青春映画の原点と言われる「八月の濡れた砂」(71)を最後に終わりを告げる。
一言で言うと無法者で無知、無軌道な主人公達、そんな彼らだから当然のことながら家など無視して生きてる。ねぐらはバイクであり、自動車。一所に落ち着く、という概念は無かった時代なんでしょう。

【2005/05/17 15:40】 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) |

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